3D地形を読み込んでいます
地理院タイル(標高タイル、シームレス空中写真、空中写真1961〜69年)を加工して作成。線路の線 © OpenStreetMap contributors。高さは1.5倍に強調
廃線でわかる北海道
夕張支線はなぜなくなった?
夕張は、かつて人口11万人を超えた炭鉱の町です。石炭を運ぶために開業した鉄道は、2019年に廃止されました。
127年走った線路は、どのように使われ、消えていったのでしょうか。
スクロールすると、石炭の発見からたどります
路線の全体
新夕張から夕張まで、16.1km
黄色い線が、廃止されたときの夕張支線です。新夕張駅から谷を北へ上り、夕張駅まで16.1kmでした。
標高データで測ると、新夕張駅は約150m、夕張駅は約290mです。線は、OpenStreetMapの線路跡のおおよその位置です。
1889〜90年
石炭の大露頭
1889年、道庁の技師が、夕張の谷で厚さ約7mの石炭の層が地上に出ているのを見つけました。夕張の歴史は、ここから始まります。
1890年、北海道炭礦鉄道(北炭)が夕張炭鉱を開きました。
1892年
石炭を運ぶ鉄道が開業
1892年11月、北炭が、夕張の石炭を運ぶため、追分〜夕張の鉄道を開業しました。このとき紅葉山駅(今の新夕張駅)と夕張駅ができています。
最初の夕張駅は、今の石炭博物館の近くにありました。黄色い線は、そこまで延びていたころの線路です。
1897〜1906年
駅が増え、国の鉄道に
1897年に清水沢駅、1901年に鹿ノ谷駅、1905年に沼ノ沢駅ができました。
1906年の鉄道の国有化に伴い、国の夕張線になりました。
1912〜32年
線路を2本に、そして1本に
石炭が増え、1912〜19年に線路を2本にしました(複線化)。
ところが第一次世界大戦のあとの不況と、1926年に石炭を運ぶ近道として夕張鉄道が開業したことで、運ぶ量が減ります。1932年に線路は1本に戻りました。今も、複線だったころの橋脚やトンネルが残っています。
1960年
人口11万人の炭鉱の町
1961〜69年の空中写真に切り替えました。谷の底から斜面まで、住宅がびっしりと並んでいます。
夕張市の人口は、1960年に11万6,908人でした。
初代の夕張駅
谷の奥の、石炭の構内
初代の夕張駅のまわりには、何本もの線路が並ぶ広い構内がありました。
赤い線は、写真に写る線路から当サイトが引いた、初代の駅までのおおよその位置です。
1972〜90年
炭鉱が閉じていく
1972年に札幌からの急行「夕張」がなくなりました。1960年代から炭鉱の閉山が続き、1990年に三菱南大夕張炭鉱が閉山しました。
1990年4月には、新夕張〜清水沢の貨物の輸送も終わりました。
1985・1990年
終点の駅が、2回移る
1985年、夕張駅は旧夕張鉄道の夕張本町駅の跡へ移りました(赤い線の区間がなくなる)。1990年にはさらに南の、ホテルマウントレースイの前へ移りました(水色の線の区間がなくなる)。
標高データで測ると、駅の高さは初代が約340m、2代目が約310m、3代目が約290mです。終点は、谷を少しずつ下りました。
2016年
1日80人の鉄道
1kmあたり1日に乗る人の数は、1975年の2,318人から、2016年度には80人に減りました。2016年度は、収入1,000万円に対し、費用は1億7,600万円でした。
1918年にできた第8志幌加別川橋りょうや稚南部トンネルも古くなり、直すには約7億円かかる見込みでした。
2016〜19年
市が選んだ、廃止
2016年8月から、夕張市とJR北海道は廃止に向けて話し合いました。国の資料には、人口減などから夕張市が廃止を提案したとあります。
2019年4月1日、夕張支線は廃止されました。JR北海道は、夕張市の交通を作り直すために7億5,000万円を出し、代わりに路線バスを走らせることになりました。
現在
石炭の町の記憶
夕張市石炭博物館の敷地には、日本遺産「炭鉄港」の構成文化財の天龍坑があります。
夕張市の人口は、2020年の国勢調査で7,334人です。
現在
石炭は、港へ運ばれた
夕張の石炭は、この鉄道で室蘭港へ運ばれました。
三笠の幌内から小樽へ石炭を運んだ幌内線や手宮線と同じく、北海道の炭鉱と港を結んだ鉄道の一つです。

