3D地形を読み込んでいます
地理院タイル(標高タイル、シームレス空中写真、空中写真1961〜69年)を加工して作成。高さは1.5倍に強調
廃線でわかる北海道
札幌市電はなぜ残った?
札幌の街を1周する路面電車。実はかつての路線の3分の1ほどしか残っていません。
そして札幌市の資料によると、当初は全線を廃止する予定でした。なぜ、この区間だけが残ったのでしょうか。
スクロールすると、1909年の馬車鉄道からたどります
1909年
始まりは、石を運ぶ馬車鉄道
札幌の路面電車のルーツは、1909年に開業した馬車鉄道です。石切山で採れた軟石を運ぶのが主な仕事で、のちに人も運ぶようになりました。
「馬鉄」と親しまれましたが、馬のふん尿の処理や、輸送力の弱さが問題になります。地図は1961〜69年の空中写真です。
1918年
博覧会に間に合わせた、中古の電車
1918年に北海道大博覧会を開くことになり、電車への切り替えが一気に進みます。8月12日、博覧会の会期中に札幌初の電車が走りました。
車両はイギリスから輸入するはずでしたが、第一次世界大戦で中止になります。急きょ名古屋から中古車を24両譲り受けて、開業にこぎつけました。
1925〜27年
雪と闘い、市営になる
北国の路面電車の課題は除雪です。1925年、竹のブラシで雪を払う「ササラ電車」が考え出されました。その原型は今も使われています。
1927年12月1日、札幌市が事業を引き継ぎ、市営の電車が始まりました。
1964年
最盛期、路線は約25km
線を引いたのが、最盛期の路線です。赤い線はのちに消える路線、黄色い線は今も残る区間です。
1964年の利用者は1日約28万人。当時の札幌市の人口約75万人の4割近くが電車に乗っていた計算です。
1964年
畑の先の、新琴似まで
鉄北線は、西5丁目通りを北へ走り、新琴似駅前まで延びていました。
1960年代の写真を見ると、北の方はまだ畑が広がっています。
1964年
円山公園へ向かう線
南1条の通りを西へ、円山公園まで電車が走っていました。
今の電車は西15丁目で南へ曲がりますが、最盛期にはその先へ、西へ進む路線があったのです。
1966年
定山渓鉄道との接続点
豊平線の終点は、定山渓鉄道の豊平駅につながっていました。1966年10月に引込線が廃止され、路線は少し短くなります。
今も豊平4条9丁目付近の不規則な道路に、駅前ロータリーの名残があります。
1971年
地下鉄の開業で、線が消え始める
札幌オリンピックを前に、1971年12月16日に地下鉄南北線が開業します。これに合わせて、鉄北線の北5条〜北24条が廃止されました。
同じ年に豊平線も廃止され、豊平から電車が姿を消しました。
1971〜74年
次々と路線がなくなる
札幌市は、地下鉄と競合する区間などを順次廃止していきました。苗穂、北5条、円山、一条橋の方面も、この間に消えます。中央区の年表には、1973年に「市電が3区間で廃止」とあります。
距離は1971年度に14.3km、1973年度に11.0kmと短くなりました。路線ごとの時期は、確かめられた範囲でしか書いていません。
1974年
全廃の予定が、変わった
1974年に鉄北線の残りも廃止され、路線は8.5kmになりました。
ここで札幌市の説明が大事になります。「当初、全線を廃止する予定でしたが、オイルショックなどを契機に、環境に優しい面などが見直され」たのです。こうして、この区間が残りました。
2002〜05年
もう一度、存廃が問われた
利用客が減り、札幌市は2002年度から3年間、存続か廃止かを検討します。2003年の市民1万人へのアンケートでは、バスに替えるべきが33.9%、存続が55.4%でした。
バスにすると朝は2分間隔が必要で、特に冬は円滑に運ぶのが難しくなり、撤去にも多額の費用がかかります。2005年2月1日、札幌市は存続を発表しました。
2015年
消えた線が、少しだけ戻る
2015年12月20日、西4丁目とすすきのの間が開業して、路線がつながりました。水色の線です。
最盛期の路線があった通りに、40年以上たって電車が戻ってきたのです。これで路線は8.9kmになりました。
現在
そして、今の市電へ
経営は今も楽ではなく、札幌市の支援を受けながら走っています。
消えた線の跡は、街に残っています。中央区役所前の鉄塔型の架線柱は車庫へ向かう線の名残で、鉄北線を走った248号は幌北車庫の跡地に保存されています。

