3D地形を読み込んでいます
地理院タイル(標高タイル、シームレス空中写真、空中写真1961〜69年、空中写真1974〜78年)を加工して作成。高さは1.5倍に強調
地形でわかる北海道
小樽運河はなぜ半分だけ細い?
石狩湾に面した小樽の街は、山を背に、一方だけが海に開けた地形にあります。海沿いの平らな土地は狭く、そのすぐ後ろに丘陵が広がっています。
この狭い土地に、港と商業の街が築かれてきました。
スクロールすると、山と海にはさまれた坂の街から、埋め立てでできた運河、運河をめぐる論争へとたどります
現在
丘を切り開いた、坂の街
海岸の多くは急な崖で海に面し、その背後はすぐ標高50〜100mほどの丘陵です。丘陵は南へ行くほど高く、険しくなります。
小樽では、この丘陵を切り開いて宅地をつくってきたため、坂の多い街になりました。勾配15%の船見坂からは、港に停泊する船を見下ろせます。
現在
火山でできた山並み
街の背後の天狗山などの山は、火山から噴き出した安山岩の溶岩や火砕岩でできています。
その下には、海底火山の噴出物でできた凝灰岩などの地層があります。西隣の積丹半島と同じように、海の中の火山活動の跡が、この街の土台にもあります。
明治時代〜
海を埋め立てて広げた街
平らな土地の少ない小樽では、明治の初めから、海岸を埋め立てて土地をつくってきました。1889年には、埋立地に堺町、色内、北浜、南浜という新しい地区が生まれ、商業の中心になりました。
港の近くには、物資を保管する石造りの倉庫が建ち並びました。
1961〜69年
埋め立てで残した水路
1961〜69年の空中写真に切り替えました。運河の外側に、倉庫の並ぶ細長い土地があり、その先はすぐ海です。
小樽運河は、掘ってつくった運河ではありません。1914年から1923年にかけて、海岸と平行に沖を埋め立てて土地をつくり、元の岸とのあいだに幅40mの水路を残しました。船と倉庫のあいだで荷物を運ぶ艀(はしけ)のための水路です。
1897〜1908年
日本初のコンクリート製の外洋防波堤
港の北側を、冬の嵐や荒波から守る北防波堤です。1897年に着工し、1908年に完成しました。長さは1,289mあり、日本初のコンクリート製の外洋防波堤です。
設計した廣井勇は、コンクリートに火山灰を加えると長持ちすることを確かめるため、約6万個の試験体をつくりました。100年以上たった今も、港を守り続けています。
1880年〜
石炭を運んだ北海道初の鉄道
1880年11月、手宮と札幌のあいだに北海道で最初の鉄道が開通し、1882年には幌内(今の三笠市)の炭鉱まで全線が通りました。石炭は手宮から船で全国へ運ばれました。手宮には、1885年に完成した日本最古の機関車庫が残っています。
その近くの海食崖には、続縄文時代の「陰刻画」が刻まれた手宮洞窟があります。陰刻画のある洞窟は、国内に2か所しかありません。
1937年〜
使われなくなった運河
1937年に、船が直接着いて荷物を下ろせる埠頭ができると、艀の仕事は減っていきました。写真には、運河の外側に並ぶ埠頭が写っています。
昭和30年代(1955〜64年)に国のエネルギー政策が石炭から石油に変わり、1963年に太平洋側の苫小牧港が整備されると、小樽港の勢いは衰えました。運河にはごみや壊れた艀が沈み、泥がたまっていきました。
1974〜78年
埋め立てか、保存か
1974〜78年の空中写真です。運河は、まだ幅40mのまま残っています。
1966年、運河を埋め立てて6車線の道路をつくる計画が決まりました。1973年に運河の南の有幌地区で石造りの倉庫が取り壊されはじめると、市民が「小樽運河を守る会」をつくり、街を二分する論争が続きました。
1986年〜
半分の幅になった運河
今の写真に戻しました。約1.3kmの運河のうち、南側の約500mが、幅40mから20mに埋め立てられました。1983年に工事が始まり、1986年に完了しています。埋め立てた部分には、道路と、ガス灯の並ぶ散策路がつくられました。
北側の運河は、幅40mのまま残っていて、作業船などの小さな船が今も係留されています。
現在
沖に広がった、新しい土地
1960年代の写真では海だった運河の沖には、今は色内ふ頭が広がっています。
小樽の港は、運河ができたあとも、海を埋め立てながら形を変えてきました。
現在
運河が残した街
運河の整備が終わった1986年度に約237万人だった観光客は、1992年度に537万人、1999年度には約972万人に増えました。
一部とはいえ運河が残されたことは、全国の景観を守る運動に大きな影響を与えました。山と海にはさまれた狭い土地を広げてきた街の歴史が、今も運河と倉庫に残っています。

