3D地形を読み込んでいます
地理院タイル(標高タイル、シームレス空中写真、空中写真1974〜78年)を加工して作成。高さは1.5倍に強調
地形でわかる北海道
奥尻島の津波はなぜ大きかった?
北海道の南西の端、日本海に浮かぶ奥尻島。東西11km、南北27kmの島で、海岸線は84kmあります。
1993年7月12日の夜、この島を地震と大津波が襲いました。
スクロールすると、段丘が重なる島の成り立ちから、1993年の津波、青苗のいまへとたどります
現在
階段のように重なる段丘
島には、海の底だった平らな面が持ち上がってできた海成段丘が、11段も重なっています。標高400mを超える高い所の段丘まで残っているのは、対岸の渡島半島には見られない特徴です。
島は長い時間をかけて隆起してきました。12万5千年前ごろの海岸線は、島の北西部で今の標高130mにあります。
現在
台地が、海へ落ち込む
最も高いのは標高584.5mの神威山です。島全体はなだらかな丘のような山地で、その多くは台地から急に海へ落ち込み、海辺の平地はごくわずかです。
集落は、台地から流れ出る川の河口の、狭い低地に点々とあります。
1993年7月12日 22時17分
島のすぐそばで起きた地震
北海道南西沖を震源とするマグニチュード7.8の地震が起きました。日本海で起きた地震としては、気象庁の観測で最大級です。
地震の震源域は、奥尻島のまわりまで広がっていました。気象庁は地震の5分後に大津波の警報を出しましたが、奥尻島にはその前に津波が着いていました。
1993年7月12日
西の海岸を駆け上がった津波
津波は島の西の海岸を中心に襲いました。藻内では、沢の奥まで津波が駆け上がっています。高さが10mを超えた所は、島の西と南の海岸だけで延長13kmに及びました。
藻内の津波の高さは、気象庁の当時の調査で21m、学術調査では沢の奥で30mを超えたとされています。
1993年7月12日
青苗は、西から、そして東から
島の南の端、低い岬に町が広がる青苗地区は、まず西から津波に襲われ、続いて東からも襲われて、壊滅的な被害を受けました。
ラベルの位置は、津波が来た向きを示すためのものです。
1993年7月12日
低い土地に、津波と火災
今の標高データで、標高10mより低い土地を青く塗りました。津波が来た範囲を示すものではありません。
青苗では、海に近い低い段丘の上の建物は、鉄筋コンクリートのものを除いてほぼ全滅しました。津波は一段高い段丘の面まで届き、流されずに残った家も、地震の直後に起きた火災でほとんど焼けてしまいました。
1974〜78年
岬の先まで、家が並んでいた
1974〜78年の空中写真に切り替えました。青苗岬の先の先まで、家がびっしりと並んでいます。
青苗地区の旧5区は、1993年より10年前の1983年の日本海中部地震の津波でも、大きな被害を受けていました。
現在
岬は、記念の公園に
今の写真に戻しました。青苗岬の先は、全戸が移転したあと、記念の公園になりました。奥尻島津波館も、ここにあります。
岬のまわりには、防潮堤が築かれています。
1993〜98年
高台へ移った町
今度は標高20mより低い土地を青く塗りました。町は海抜20〜30mの高台に4つの団地をつくり、青苗の住民を中心に約190戸が移りました。全部の家を移すのではなく、一部を移す案が選ばれています。
海辺に残る地区では、防潮堤の後ろの土地を盛り土して宅地にしました。2000年には青苗漁港に「望海橋」ができました。岸壁で働く人がすぐに上へ逃げられるよう5つの階段があり、高台へ続く避難路につながっています。
1993年
隆起してきた島が、沈んだ
長い時間をかけて隆起してきた奥尻島ですが、この地震では逆に、島全体が沈みました。地質調査所の調べでは、島の北部で約30cm、南部で60〜70cm沈んでいます。
調査した地質調査所は、隆起を予想していたのに結果は全く逆だったとして、これを「今回の地震の最大の謎」と書いています。
1983年と1993年
10年前の経験が、命を救った
奥尻島では、10年前の日本海中部地震の津波の経験から、強い揺れを感じると同時に、津波の警報を待たずに高台へ逃げて助かった人もいました。
この地震のあと、気象庁は津波警報を出すまでの時間を短くする改善を重ね、今は地震からおよそ3分で警報を出しています。
1998年〜現在
「完全復興宣言」のあと
奥尻町は1998年3月に「完全復興」を宣言しました。地震の揺れを感じると自動で閉まる水門や、1階を柱だけの空間にした青苗小学校の校舎もつくられました。
町は2005年から、避難訓練や語り部の講演などの防災教育を続けていて、島の内外の中高生を中心に1,000人以上が参加しています。

